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思い

生まれも育ちも旭市ですが、20歳から10年間は、都内、岐阜、川崎と進学のために地元を留守にしていました。
大学と大学院で取り組んだ研究は、発展途上国の農村開発です。インドネシアに住み込んで、現地の方々とともにどうしたら生活が豊かになるか?を農業分野だけでなく、ゴミの不法投棄などの環境問題、清潔な飲み水の確保、家畜糞尿などの垂れ流しの削減などのインフラ整備に携わっていました。
そのまま発展途上国の開発に骨を埋めるつもりでしたが、帰国した際に見聞きした日本の農業の現状に驚きました。正直なところ、日本の農業は機械化が進み、大規模化、集約化、農産物価格も安定しているので心配はない、と思っていました。
ところが、高齢化が進み、担い手不足で耕作放棄地が年々増えているという現状を知り、果たしてこのまま海外の農業に携わっていてよいものか?と迷いを感じました。
実際、祖父母までは農家だった母方の実家の田畑は、人に貸したり、草っ原になっている状態でした。思い立ったらすぐ行動のB型であるわたしは気づいたら日本の農業へ飛び込んでいました。
さて、何から始めよう?と思っていた時に知ってしまったこと、化学物質アレルギーやアトピーの子ども達が急激に増えている、普通に育てたお米や野菜を食べることができない子ども達がいる、方向性が決まりました。化学的な農薬や化学肥料を使わない有機無農薬な農業です。
ちょうどその頃、ロハスや菜食主義が流行りだし、千葉市緑区に自分で育てた農産物だけを販売する直売所を始めて、また、都内のレストランのシェフの方々とも懇意になり、テレビや雑誌などで取り上げていただく機会が増え、順風満帆だと思っていた矢先、東日本大震災が起きました。
数日間、なにもできない日が続き、それでも、飯岡の津波被害に遭われた住宅の泥出しや片付けのボランティアへ通う毎日でしたが、ある日、とんでもない情報が伝わってきました。旭市産の農産物から放射性物質が検出されたと。
その時、ふと、ロシアのチェルノブイリ原発事故のことを思い出しました。事故後、周辺地域の農産物は放射性物質が基準値以下でも長い間、風評被害でまったく売れなくなってしまったことを。
数日後、何人かの農家の方を誘って、都内青山で毎週開催されている朝市へ自分で育てた野菜の販売を始め、旭市の野菜は危険じゃないですよ。安心して食べてくださいという活動を始めました。
しかし、マスコミやニュースが日々取り上げる放射性物質の危険性や数値などによる風評被害によって、直売所の野菜がほとんど売れなくなり、閉店を余儀なくされました。あとに残ったのは、経営規模拡大を目指して借り入れた借金ばかりでした。
しかし、この経験からこれまで規模拡大で利益追求を進めていたことから脱却し、借金を返済しつつ、食育や地域活動、PTAやボランティアに取り組む機会が増えました。
2期6年にわたる主任児童委員、そして2度のPTA会長を務めさせていただいた経験から、児童虐待、不登校、いじめ問題などに取り組む機会が多くなりました。干潟小学校の社会科学習の子ども達の受け入れや旭2中の生徒達の職業体験、干潟保育所のさつまいも作り、都内の小学生や地元の小学生による田植えと稲刈り体験などなど、毎月のように子ども達の明るい声と元気な笑顔があふれる農園になりました。
しかし、今回のコロナ禍により、ほとんどすべての行事が中止になってしまいました。小中学校の入学式や卒業式は規模縮小により、来賓としておじゃますることがなくなってしまいました。近い将来にはコロナを克服してまた元の生活に近い日々が戻ってくるとは思いますが、ここ数年は落ち着かない日々が続いてしまうのではと思っています。
未来ある子ども達のために、そして、いまが一番たいへんな子育て世代の方々のために何かできないか、なにが一番良いのか、と考え悩んだ末に思い至ったことは、旭市市議会議員選挙への出馬です。
私の家は、妻が看護師で子ども達が乳児だった頃、妻が夜勤でいない時など、おむつ交換やミルクを作ったり、離乳食を作ったり、泣き止まない時に抱っこしたまま寝ていたり、今では懐かしい思い出ですが、子育ての大変さは少しはわかっていると思います。今でも炊事洗濯、掃除は当たり前にしており、兼業主夫だね、と言われたりします。
コロナ禍で停滞してしまった世の中、アフターコロナの日々を子ども達と親御さんが明るく楽しく笑って暮らせる旭市にしていくために全力を尽くします。

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